■ターニングポイントとなった2006年
ワールドカップ(W杯)・ドイツ大会が開催された2006年は、ジェフユナイテッド千葉とそのサポーターにとって、極めて振幅の激しかった1年として深く記憶に刻まれている。前年に完成したフクダ電子アリーナ(通称フクアリ)の効果もあり、1試合平均の入場者数は前年から40.5%増の1万3393人を記録(以後、07年から09年まで1万4000人台をキープ)。また前年に続いて、ナビスコカップ連覇も果たした。前回の決勝ではガンバ大阪に0−0からPK戦までもつれたが、この時は鹿島アントラーズに2−0の完勝。チームのさらなる成長を感じさせる優勝であった。ただし、国立競技場で胴上げされたのは、イビチャ・オシムの息子、アマル・オシムであった。
「あ、オシムって言っちゃったね」――。川淵三郎日本サッカー協会会長(当時)のこの一言が発端となり、千葉は契約満了を待たずにオシム監督を協会に差し出すことを余儀なくされた。オシムの日本代表については、確かに取材者のひとりとして非常に思い出深いものが多々あったのは事実である。しかしながら、この時の千葉サポーターの喪失感と無力感がいかばかりのものであったかについて、部外者といえども多少の想像力はめぐらせるべきであろう。もちろん、自分たちのクラブから代表監督が選ばれるのは誇らしいことだろうし、オシムが代表監督になってから何人もの千葉の選手がA代表のキャップを刻むこととなり、それがフクアリの集客アップにも影響した。だが結果として、オシムが去ってしまってから千葉の迷走が始まったのも、紛れもない事実である。
06年の千葉は11位でシーズンを終えた。2桁順位は、オシムが監督になった03年以降、初めての(そして久々の)屈辱でもあった。翌07年も残留争いに巻き込まれ、何とか13位でJ1に踏みとどまるも、アマルは解任。これと前後して、いわゆる「オシム・チルドレン」の流出に歯止めがかからなくなる。07年には、当時のキャプテン、阿部勇樹が浦和レッズへ移籍。08年には、水野晃樹(→セルティック)、羽生直剛(→FC東京)、山岸智(→川崎フロンターレ)、水本裕貴(→G大阪)、佐藤勇人(→京都サンガFC)がチームから去っていった。96年にジェフ市原(当時)のジュニアユースに入団して以来、一貫してジェフ一筋だった千葉の守護神、岡本昌弘は当時の状況をこう振り返る。
「あの時は、スタメンの半分がチームを去って、(08年のクラブの)カレンダーに誰もいなくなりました。正直、寂しかったですよ。みんなとずっと一緒にやってきて、タイトルも取って。もちろんプロの世界ですから仕方のない部分もあるけれど、降格したわけでもないのに急に人がいなくなるのって、なかなかないと思いますよ。監督が変わればサッカーも違ってくるけど、そもそも1年かそこらでチームが完成するわけがない。これまで培ってきたアドバンテージがなくなってしまったのも、今思えば残念でしたよね」つづきは以下から。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/jleague/2013/columndtl/201310210004-spnavi▼ジェフといえばこれ
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